映画レッドクリフのモデルになった「赤壁の戦い」の真実とは【前編】

三国志の時代には魏、呉、蜀の3つの国がそれぞれ覇権を争っていた乱世でしたが、赤壁の戦いは後の三国の主役が揃った数少ない戦いの1つでした。

河北の袁紹を降した曹操はすでに中国の北部一帯をほとんど手中に治めており、次に狙っていたのが劉表の治めていた荊州(けいしゅう)です。

荊州に南下してきた曹操は劉表に狙いをつけていましたが、劉表が病死したことによって息子の劉琮(りゅうそう)がそのまま曹操に降伏してしまいます。

この時、荊州に身を寄せていたのが劉備であり、荊州の人民は劉備を頼る人が多く、これを連れて落ち延びたのが長坂の戦いでした。

呉からは魯粛(ろしゅく)が荊州の情勢を伺いに来ており、劉表の息子で曹操に降伏していなかった劉琦(りゅうき)と合流した劉備は呉と組んで曹操と対峙することになります。

ここに劉備・孫権軍vs曹操軍の激戦が繰り広げられることになります。

三勢力の思惑が交錯した「赤壁の戦い」

画像引用元:赤壁の戦い

長坂の戦いを生き延びた劉備達は、呉の魯粛を説いて同盟を組んだことで知られていますが、実は同盟に至った経緯は三国志の書によって若干の差があります。

一般的に知られている同盟までの流れとしては

劉備の元にいた諸葛亮孔明が魯粛に伴って呉に向かい、降伏論が主体であった孫権や臣下達を挑発して説き伏せたことによって、大都督を担っていた周瑜を中心にした抗戦派を押し上げて劉備・孫権の連合軍を結成した・・・・というのが三国志演義でも有名なエピソードの1つです。

この逸話は三国志の呉書「魯粛伝」と蜀書の「諸葛亮伝」によって伝わっている話を組み合わせたものだとされています。

しかし、腑に落ちない謎が残されているのが「赤壁の戦い」を考える上での面白いポイントですので、そちらも合わせて紹介いたします。

諸葛亮孔明の名前が劉備伝、孫権伝には出てこない

後の蜀の主君である劉備の記録が残る三国志の先主伝や同じく呉の先主伝には、赤壁の戦いにおいて諸葛亮孔明という存在の名前は出てきません。

三国志の歴史を考えると、非常に重要な戦いになったとも考えられるにも関わらず、諸葛亮孔明の名前が挙がっていないことは、史実の赤壁の戦いを考える上での謎の1つです。

特に、水魚の交わりとも呼ばれた劉備の記録において諸葛亮の名前が登場しないことには違和感を覚えないでしょうか?

表面上だけの同盟関係だった劉備と孫権

これは三国志演義でもよく知られているエピソードですが、赤壁の戦いは元々状況が不利だった劉備が荊州を手に入れるために諸葛亮によって考えられたシナリオであったとも言われています。

事実、赤壁の戦いで曹操軍を破った後は、荊州を巡って劉備と孫権達は対立関係となり、最終的には、荊州の因縁によって関羽が誅殺されたとも考えられているからです。

赤壁の戦いの功労者は周瑜と程普だった

若くして亡くなった周瑜の名前は知られていますが、実は呉には孫権の父である孫堅の代からの功労者であった程普という武将がいました。

一般的なイメージでは、周瑜が策を練ると、それらを全て先読みした諸葛亮が作戦の立案者であり、開戦当日には諸葛亮の祈祷によって東南の風が吹き始め火計が成功し、曹操軍の大船団は大打撃を受けた結果、退路に武将を置いた諸葛亮が曹操を追い詰めたように語られています。

しかし、これらはあくまでも演義での創作である可能性が高く、史実を考えると主に戦ったのは周瑜、程普の2人の将軍であったことが伺えます。

唯一多くに共通する火計による撃退

赤壁の戦いにおいて、多くの共通する勝因は、劉備・孫権軍は火計を利用して曹操軍を撃退した、という点についてです。

しかし、この「火計」についても、正史の三国志やその後に残された史書では食い違うポイントがあり、謎が謎を呼ぶようなものになっているのです。

よく知られているものでは、曹操の船団は「連環の計」によって繋ぎ合わせられていたため、あっという間に燃えてしまったという説ですが、これも史実では信ぴょう性の乏しい逸話なのです。

後編では、史実に語られてる赤壁の戦いにおいて使われた火計について、いくつかの説を紹介していこうと思います。

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