これは「新潟少女監禁事件」に関する記事の【パート3】です。本編をお読みになる前に、ぜひとも【パート1】からお読みください。
監禁生活が始まる数年前から佐藤の家庭内暴力は始まっていたが、監禁生活開始から約5年後の1996年1月には母親が保健所に駆け込んでいる。ここで佐藤のいき過ぎた家庭内暴力を訴えたことにより、職員が家庭訪問を打診。
ところが母親は、佐藤が暴れることを懸念してこれを断っている。そこでこの代替案として精神病院の受診を勧めらる。佐藤はこの提案を受け入れ、そこで処方された向精神薬を服用した(恐らくこのとき病院へ佐藤は同行せず、病院へ赴いたのは母親のみであったのではないかと推察)。
佐藤の家庭内暴力が激しくなったことで、家の中にいても心落ち着かない母親は、かんぽの宿で時間を潰すことが多くなった。
長年、保険外交員として活躍してきた母親であったが、この頃にはその仕事もほとんどなくなっていた。
母親は若い頃に実績を上げていたことで、通常60歳で定年であるところこれを5年延長。さらには65歳で定年退職後も、嘱託として仕事を続けることが許されていた。
しかしかつてはたくさん取っていた契約も、加齢や佐藤のことでの心身の疲弊によって、契約はほとんど取れなくなっていた。
監禁生活末期の1999年。
佐藤は房子さんのみならず、母親にもスタンガンを使うようになる。同年12月、再び精神病院を訪ねた母親はここで佐藤の家庭内暴力を訴えた。それは以下のような内容であった。
「ここのところ息子の暴力がひどい」
「自分の思いどおりにならないと殴る蹴るの暴力に留まらず、私を縛り付ける。トイレにさえ行くことが許されない」
これを受けた担当医師は、精神病院への措置入院(強制入院)を提案した。母親がこれに同意したことから、翌2000年1月19日にはその是非を判断するために保健所職員と柏崎市職員が佐藤の自宅を訪問した。
佐藤にとってみれば、これにより危うく房子さんの存在が明るみになるところであったが、ここでも頑なに自室に閉じこもったために面会は実現しなかった。
佐藤にすれば、これは”難を逃れた”とみられた。ところが後日、佐藤の知らぬところでは、精神病院や保健所、市役所などが協議を行われ、専門チームが構成された。そして措置入院の実施日が決定されることとなる。
いよいよ佐藤の”共同生活”崩壊のカウントダウンがはじまった—。
佐藤が鎮静剤によって眠りに落ちた後、現場の関係者たちの目は”毛布の塊“に向けられた。これは騒動の間にももぞもぞと動いており、その部屋内に佐藤以外の誰かがいることはそこにいる誰もが察していた。
この毛布の塊は袋状になっていたため、これに市職員がハサミを入れて切り開くと、中から異様に肌の白い短髪の少女が現れた。
そこで市職員は次々に房子さんへ問いかけた。
「あなたは誰ですか?」
「名前は?」
「どこから来たんですか?」
しかし房子さんは口ごもった上で、
「気持ちの整理が付かないから」
と話した。
房子さんとの会話では要領を得ないと感じた指定医が階下にいた母親を2階へ呼び、尋ねた。
「この女性は誰ですか?」
これに対して母親は、
「知りません。顔を見たこともない」
そう答えた。
指定医は房子さんに、
「一緒にいた宜行さん(佐藤)は入院することになったので、ここにはいつ帰ってくるか分かりません。あなたはどうしますか?」
そう尋ねると、房子さんは母親にこう尋ねた。
「ここにいてもいいですか?」
すると、母親はこれを了承した。ところが、
「そういう問題ではありません。家の人に連絡しなくてはだめですよ」
すぐさま市職員らが母親をたしなめた。
こうしたやりとりを観ていた房子さんは、
「私の家はもうないかもしれない」
そうつぶやいた。
母親が房子さんに尋ねる。
「あなたの家はどこ?」
すると房子さんは、
「ここかもね」
そう答えた—。
佐藤の自室で一連のやりとりが行われた後、佐藤ほか3名、母親と医師、房子さんほか2名が分乗して近郊の病院へ向かった。
このとき佐藤の自宅に残った市職員の携帯電話には、柏崎署からの折り返しの連絡が入り、「現場に派遣する人員の都合がつかない」と告げられた。
ところがここで、この市職員は「佐藤が鎮静化して病院へ搬送されたこと」、「佐藤の自室から身元不明の女性が見つかったこと」を伝えた上で、警官の出動を再要請した。しかし電話口の警察担当職員は出動を拒否した。
「そちらで住所、氏名を訊いてくれ。そんなことまでこちらに押し付けないでくれ」
この文面だけみると、このとき対応した係長の対応に大きな問題があったように思われるに違いない。ところがこれは対市民への対応ではなく、いわば協力関係にある”同業者”同士のやりとりであった。そのため、係長は”そちら”や”こちら”などといった言葉を用いている。係長にすれば、自分のところの署員が出払ってしまい、”そこまで手が回せないので、あなた方で対応できるならそちらで頼む”という心情であったと推察できる。
また、この会話の終わりに係長は、「もしも彼女が家出人ならば保護する」と電話口の市職員に伝えている。尚、この要請が仮に市民によるものであれば、係長は署員を現場へ出動させていたであろうと本記事では推察している。ちなみに当時の新聞報道では、こうした事情の揚げ足を取るようにして警察バッシングを行った。これが本事件に新潟県警の不祥事が結びついている一因であることは間違いない。
この事実上の”出動要請の拒否”は、2000年2月15日に「新潟県警が出動を断った」と一斉に報じられ、これにより一連の警察対応が不祥事として追及される事態へと発展した―。(詳しくは後述)
房子さんと一緒に病院へ搬送された佐藤は、措置入院のためすぐに病院施設内に収容された。
その後の房子さん保護に伴い、容疑者となった佐藤。そのため、警察は早期の身柄引き渡しを病院側へ要求したが、このとき佐藤が投与された鎮静剤によって昏睡状態であったことから、院長は”医療優先の方針”を伝えた上で警察をたしなめた。
さらに院長は、佐藤の覚醒後もすぐに身柄引き渡しとはさせず、急激な環境変化による精神的動揺への配慮や内科疾患(入院後発症した)が完治するまで、十分な時間を設けた。
こうして院長の配慮により設けられた”クールダウン”であったが、事件に関する報道が先んじてある程度されてしまう。これにより、入院中の佐藤の様子を捉えようとするマスコミの人間が押し寄せ、院内での混乱を招いた。
佐藤の入院から2週間後となる2月11日。
回復した佐藤は退院。そして病院の裏口から警察車両に乗って警察署へ連行された。佐藤の逮捕は院内では行われず、病院敷地から出た時点の2000年1月28日 14時54分、佐藤は警察車両内にて逮捕された。