備前岡山藩で名君と名高い、池田光政の言葉

『稲の名前も知らない郡奉行は、百姓を養うことは出来ない』

会社経営に置き換えれば、頷ける一言でもある。

とくに起業スキームを外注化している人はもう一度自問自答してみて欲しい。

池田光政とは

Wikipediaより引用

池田 光政(いけだ みつまさ)は、播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主。岡山藩池田宗家3代。
光政は岡山城の鎮守として東照宮(現在、玉井宮東照宮)を勧請しており、これは日光東照宮が地方へ分社された全国で最初のものであったが、他の藩でもこれにならって次々に東照宮の御勧請を行い、その数は一五〇社にのぼったと言われている。そして東照宮造営は藩主池田光政の大願であった。社殿造営にあたり家老池田出羽守を大奉行とし、徳川幕府の作事方総大工木原杢允を大工棟梁に充て、備前藩の作事総大工の地位にある横山三郎右衛門は小工として次席に置くなど、人員配置にも異常の配慮の払われた神社の造営であった。『池田家履歴略記』正保二年二月の記事中に

「去年(正保元年)東叡山の開山天海増正を以て東照宮を備前に勧請し、城郭の鎮守と祝し奉らんことを将軍家(徳川家光)の御内聴に達せられしが、今年六月一日僧正より返答あって、同二日(池田光政が)酒井讃岐守(大老)の許へ参り給い、御勧請の事仰せあれば、(酒井は)貴殿の志は尤なれども、以後国々残りはなく願はれ、心にもあらぬ事に成行き候はんは如何也、さればいかに軽く御造営然るべしと答られける。烈公(光政)大に悦せ給い、やがて備前に帰られ其用意あり、七月九日諸役を命ぜらる。(カッコは注)」と」あった。社地は当時の上道群門田村幣立山で、ここには古くから玉井宮が鎮座し八幡宮(地元の氏神)として崇敬されていたが、この宮を地続きの南部の低地に移し、その跡へ大がかりな東照宮(現在、玉井宮東照宮)の造営は行われたのである。

Wikipediaより

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