新潟少女監禁事件 -2-

これは「新潟少女監禁事件」に関する記事の【パート2】です。本編をお読みになる前に、ぜひとも【パート1】からお読みください。

新潟少女監禁事件 -1-


事件の解説 2.

事件当日の様子 (被害者側)

本事件当日(1990年11月13日)。
19時45分頃
、娘が帰ってこないのを不審に思い、房子さんの母親が駐在所に捜索願を出す。これを受け、新潟県警三条署職員と学校関係者100人以上が直ちに周辺の捜索に当たった。しかしこの日、房子さんが見つかることはなかった。

14日にはさらに多くの人員を配備して捜索するも、この日も成果なし。房子さんに繋がる手がかりすら見つけることはできなかった。

15日には三条署内にて、「女子小学生不明事案対策本部」が設置された。これは県警機動隊や機動捜査隊など総勢107名から成るものであった。これにより、ヘリコプターによる空からの捜索や夜間検問の実施に加え、コンテナボックス内や空き家なども捜索の対象とし、捜索の輪を広げていった。さらに捜索範囲は房子さんの生活圏内に留まらず、周辺市町村にまで拡大されることとなった。
これらに加え、新潟県警は房子さんのビラを作成し、2万枚を県内全域に配布。さらには別のビラも追加で1,000枚作成し配布。こうして、全県民に対して情報提供を呼びかけたが、それでも房子さんに関する有力情報を得ることはできなかった。

事件発生から数週間後には、捜査関係者の間では”車を利用した拉致事件である”との見方が色濃くなった。そのため捜査を強化するために捜査一課が投入されたが、組織内のこうした空気が捜査員たちのモチベーションを下げていたと、当時の警察担当記者が語っている。
尚、事件発生から6日後の19日には、捜索に動員される人員は80人ほどになり、事件からまだ間もないにも関わらず捜索規模は縮小された。このことから、この時点で房子さん生存に対して、警察内では”諦めムード”が漂っていた可能性がみてとれる。

それでも尚、地元消防団などによる懸命な捜索は続けられていたが、翌月12月25日にはいよいよこうした捜索が打ち切られた。
とはいうものの、これ以降は毎年事件の起きた11月13日には、三条署職員が学校や路上などで房子さんのビラを配るといった活動が継続して行われることとなった。

【捜査員たちのモチベーション低下について】
「女子小学生不明事案対策本部」が設置されていた三条署であるが、ここに勤務していたひとりの男性職員が本事件に関わっているのではないかと秘密裏に事情聴取が行われていたという事実がある。
というのも、この職員はかねてより女性に対する問題行動を繰り返していたからである。結局、この職員は本事件においてはアリバイが証明されて不問となったが、別件で諭旨免職処分となった。
本事件において、捜査員たちが比較的早い段階でモチベーションを失っていたのは、身内から容疑者が出たことが大きく影響していたといわれている。こうした内部事情を知る識者は、新潟県警(当時)のその「馴れ合い体質」や「隠蔽体質」を批判している。しかしその一方で、「良心的な職員も数多くいる」と一部評価している。

事件の解説 3.

監禁生活の様子

生活ルール

佐藤が房子さんを9年以上監禁していた自室

ここまでお伝えしたとおり、佐藤は房子さんを自室に監禁していた。そしてこの監禁生活を続けていくためには、当然のことながら誰ひとりとして自室に入れてはならず、また佐藤自身も自室から出て彼女への監視の目を絶やすことは極力避けなければならなかった。そのため、佐藤が引きこもりとなったのは、いわば”引きこもらなければならなかった”からであるともいえる。

佐藤は房子さんを自室へ拉致してからというもの、最初の2~3か月間は「脅迫的な言葉を繰り返し浴びせる」「ナイフを突きつけて脅す」さらには「顔面を何度も殴打する」といった暴行を行い、房子さんが従順になるよう調教した。また、佐藤の外出や就寝の際には、房子さんの両手両脚を緊縛して逃走を防止した。

ほどなくして両手の緊縛は解かれたものの、両脚の緊縛は1年ほど続いた。これは房子さんの脱出する意欲を喪失させるのに大きく加担したとみられている。
この頃から、やがて佐藤は房子さんに対する態度を軟化させる。監禁生活を送る上でのルールを定め、幾ばくか秩序的に接するようになる。監禁生活のルールは以下のとおり。

  1. 大声を出さないこと
  2. 暴れないこと
  3. 佐藤が部屋を出入りする際には、顔を覆ったり毛布に潜ること
  4. 監禁部屋内のベッドから許可なく降りないこと

①、②に関して、理由は明白である。③に関しては佐藤が部屋を出入りする際、開いたドアから部屋の向こうの様子(家屋の構造)を見られないようにする目的があった。④に関しては房子さんの行動範囲を制限する目的と、足音や物音を階下に伝えないためであったと思われる(佐藤の不在時に佐藤の自室から物音がするのはおかしいため)。ちなみにベッドはセミダブルサイズであったため、房子さんの行動範囲はかなり制限されていたといえる。

尚、このルールを破ると暴行が加えられる。

監禁2年目辺りからはスタンガンが導入された。このスタンガンは、やはり佐藤が母親に命じて買わせたものである。

スタンガン

対象に電気ショックを与える防犯グッズの一種。本来は護身用として使われるべきものであるが、佐藤はこれを監禁のために悪用した。

スタンガンの一例

 

「スタンガンの刑」が行われる際、叫び声を上げると先のルールを破ることになり、”さらなる暴行が加えられる”と思った房子さんは自分の腕や毛布を噛むなどして声を上げることなくスタンガンの電気ショックに耐えた。
スタンガン導入後、このスタンガンの刑は房子さんが監禁生活のルールを破ったり、佐藤の身の回りの世話をこなさなかったときにも適用された。また、佐藤が房子さんにプロレス技をかけたとき、彼女が苦痛に声を上げたときにも適用されるなど、監禁生活には理不尽な点が随所にみられた。

房子さんは佐藤の暴行がエスカレートした頃から、目を殴られると失明すると思い、顔面を殴られる際には自ら頬を差し出すといったある種の自衛行為を取るようになった。さらには、度重なるスタンガンの刑による痛みに慣れるために、スタンガンを自らの身体に使用するという行動もみせるようになった。
また、暴行を受けている最中には第三者的立場を仮想(例えば、”暴行されているのは自分ではなく、他の誰か”というような)して防衛機制を働かせていた。
この頃から、房子さんには解離性障害の症状が出はじめたといわれている。

防衛機制
受け入れがたい状況に見舞われたときに、それによる不安を軽減しようとする本能的な対処法のこと。
解離性障害
主な症状としては”自分が自分ではない”というような感覚、文字どおり自我が解離している状態のことを指す。
逮捕後の佐藤の供述によると、約9年の監禁期間中において、軽い殴打は700回、強い殴打は200~300回程度に及んだということである。佐藤がこれらを過少申告していたとしても、9年間とはいえこれらの回数は非常に多いといえる。
強いものに対しては口を閉ざし抵抗しないが、こと自分よりも弱いものに対しては、横柄で乱暴な態度を取る卑劣なパーソナリティーがここで露呈する。

食生活

食事は当初、母親が佐藤の夜食用に用意していた弁当が房子さんの食事として与えられていた。尚、この弁当は重箱詰めであり、豪華なものであった。この豪華弁当は、このときすでに高齢であった母親への負担を考慮した佐藤がやがて中止させた。それ以降は安価で手軽に購入しやすいコンビニ弁当に切り替えられた。

監禁から6年後の1996年頃には、房子さんの足に痣(あざ)がみられるようになった。この痣は佐藤が気付き、この痣を”高たんぱくに起因するもの”と考えた。さらにはこれが糖尿病に進行することへの危機感を抱いた佐藤は、房子さんの食事を1日1食へ減らした。佐藤の取ったこの措置は、”運動ができない以上、減らすしかない”という判断によるものであった。
こうして「1日1食」へと移行した食生活であったが、その数か月後から房子さんは体調を悪化させていくようになる。ここで佐藤が房子さんの体重を計測すると、それまで46kgほどあった体重は38kgにまで減少していた。
やがて頻繁に失神を起こすようになった房子さんに対して、佐藤の対処は1日1食のコンビニ弁当におにぎりを1つ足すだけであった。

運動

監禁生活の中で房子さんに許されていた運動は、ベッドの上で行う屈伸運動のみであった。ところが佐藤が房子さんの糖尿病を危惧するようになって以降は、これに加え床上での足踏み運動が許可されるようになった。しかしこれは階下に母親がいる場合には禁止された。

こうして長年続いた監禁生活により、房子さんの筋力は自力で立てないほどに低下。筋肉は著しく委縮していた。
後の房子さん発見時には著しい栄養不良に加え、骨粗しょう症鉄欠乏性貧血両脚の筋力低下などが認められ、自力での歩行は不可能な状態であった。

衛生面

生活範囲が佐藤の自室内のみに限られた監禁生活であったため、当然のことながらトイレやシャワーの利用は許されなかった。
房子さんはこの監禁生活の中で、排泄はビニール袋を用いて行っていた。これは佐藤が潔癖症により、トイレが使えなかったため、自身が日頃から行っていた排泄方法を彼女に倣わせたとされている。もちろん、これは母親への房子さんの存在発覚を防止する目的も兼ねていたと思われる。
尚、排泄後のビニール袋は部屋の外の廊下に放置されていた。

ちなみに房子さんは9年以上も監禁されていたが、その間に入浴をしたのはたったの1回だけであった。これは房子さんが誤ってベッドから落ち、埃まみれになってしまった際に、房子さんを目隠しさせたまま佐藤がシャワーを浴びさせたときのことである。

房子さんへの待遇・佐藤とのコミュニケーション

房子さんに対して、佐藤は暴行や強要など理不尽な処遇を与える一方で、マンガや新聞などを与えていた。また、テレビやラジオで流れるニュースなどの内容についての時事的な語り合い、また競馬や車など佐藤自身が興味を持つものの話題で語り合うことを好んだという。こうした場面からは佐藤の内側にある”孤独“が垣間見える。

逮捕後、佐藤は房子さんとの時事的な議論について、”彼女の教養のためであった”と供述している。これが本当であるならば、共同生活の中で佐藤には房子さんに対するある種の”親心“のようなものが芽生えていたのかもしれない。また、佐藤は本気で房子さんと生涯共に暮らすつもりであったことが窺える。(実際、逮捕後の裁判で佐藤は「友達と認識していた」「対等に話のできるかけがえのない話し相手だった」「ずっと一緒に暮らしたいと思っていた」と述べている)
これを裏付けるように、佐藤は房子さんに数学を教えていたことも明らかになっている。こうした佐藤の教育が寄与してか、房子さんの保護後に行われた検査では、彼女の知能指数(IQ)は同年代の水準と同レベルであった。また、知識量や語彙量においても、これといった欠如はみられなかった。

佐藤による唯一の施しともいえる教育は、逮捕後の裁判において、弁護人が情状酌量を訴える材料となった―。


房子さん監禁中の人々の様子について、そしていよいよ事件が動く。続きは【パート3】にて—。