新潟少女監禁事件 -4-

これは「新潟少女監禁事件」に関する記事の【パート4】です。本編をお読みになる前に、ぜひとも【パート1】からお読みください。

新潟少女監禁事件 -1-

新潟少女監禁事件 -2-

新潟少女監禁事件 -3-


事件の解説 6.

房子さん発見後の報道について

佐藤に関して

房子さんが発見・保護された当日の1月28日(2000年)、21時30分
新潟県警は三条警察署で記者会見を開き、「約9年前に三条市内で行方不明となった少女を発見、保護した」と発表した。この会見の様子は翌朝に事件の第一報として各局一斉に報じられた。
佐藤については精神障害者の可能性が示唆されていたことから、主要なマスメディアは佐藤のことを「男」という匿名の呼称を用いていた。ところが『週刊文春』はその2月3日号において、佐藤の高校時代の顔写真と併せて実名報道を敢行。これに続くように、『産経新聞』が2月5日付朝刊から実名報道を行った。
これで堰(せき)を切ったように、他の主要紙も実名報道に切り替えた。
【佐藤の実名報道について】
房子さん発見後、主要なマスメディア同士が相手の様子を窺うように匿名報道を行っていた中、実名報道を強行した『週刊文春』。これは佐藤の”刑事責任が問えるか否か”がはっきりしていなかった最中のことである。
“匿名報道”、こうした世の中の配慮を無視して”個人プレー”に走ったことから、週刊文春のビジネス優先の姿勢が露呈した。

ズボンスキ
このときの文春はさぞ売れたんでしょうね。さすが文春!

 

房子さんに関して

房子さんの地元である三条市、その地元紙『三条新聞』。
当初、同紙では房子さんの実名のほか本人の写真、さらには家族写真まで掲載していた。ところが、これをみた新潟市の市民グループが「人権侵害である」と猛抗議。同紙ではその後、房子さんについては匿名報道に切り替えた。

【三条新聞の言い分】

「本紙は地元紙であり、読者が被害者(房子さん)の氏名等を熟知しているので、匿名にする意味がなかった」

また、匿名報道に切り替えた理由としては、以下のようにアナウンスしている

「本紙読者が他紙を併読する場合の影響に配慮した」

 

新潟県警による記者会見 -虚偽発表-

先述のとおり、房子さん発見・保護の当日、新潟県警は三条警察署で記者会見を開き、房子さんが発見されたことを公表した。ところが、房子さん発見の経緯を知る保健所所長は警察発表が事実と異なることを指摘。これにより記者会見における警察発表の信憑性が大きく揺らぐこととなった。
ちなみに、警察発表の概要は以下のとおり。これらはすべて事実とは異なっている。

 

「男(佐藤が)病院で暴れていた」
病院で行方不明少女は警察により保護された」
「出動要請があった後、“男が大人しくなったので出動の要請はなくなった”との連絡を受けた

 

新潟県警の釈明会見


2000年2月17日
マスコミを主体とする警察バッシングを鎮静化させるため、新潟県警は釈明会見を行った。この会見に出席したのは県警刑事部長と生活安全部長であった。
記者クラブは県警本部長の出席を求めていたが、このとき本部長が出席することはなかった。
この会見で県警は、世間の目下の関心事であった「出動要請の拒否」について以下のように言及した。

 

「出動要請を拒否したという認識はないが、結果として迅速な対応ができなかったのは事実」

 

このように組織の非を認め、謝罪した。
尚、佐藤の家庭内暴力が酷くなりはじめていた1996年頃、母親は佐藤の家庭内暴力について相談するために柏崎警察署を訪ねていた。しかしこのときの担当職員は、「子どもの暴力は保健所に相談してくれ」とぞんざいな対応をしていたことも明らかになった。県警はこの件についても併せて謝罪した。

「本部長の釈明会見欠席」、これにより火に油を注ぐ展開になるかと思われた会見であった。ところが出席した県警職員らは、一連の不適切な対応に対する真摯な謝罪をもって、警察バッシングの火を鎮めた。

 

コラム 【新潟県警上層部たち (本事件当時)】
房子さんが発見・保護された当日(2000年1月28日)、ちょうど新潟県警には関東管区警察局長*(以下:局長)が視察に訪れていた。*当時各地の警察を視察に回っていた警察庁特監察チームのトップ

この視察後、局長と県警本部長(以下:本部長)を含む県警の幹部たちは新潟県三川村にあるホテルに1泊する予定であった。
ところが、一行がこのホテルへ向かっている途中で本部長に連絡が入る。

「三条市で9年2か月前に行方不明となった少女が発見されました」

しかし、本部長はそのままホテルへ一行はその晩、宴会を行った
この宴会の最中にもFAXで次々と房子さん発見・保護に関する報告が寄せられており、これをみた局長は本部長に事件の対応を促した。

「(県警本部に)帰ったらどうだ?」

これに対し本部長は

大丈夫です

そう答え、本事件に関してまるで無関心な様子をみせた。

この宴会後には、一行は図書券を景品にした麻雀大会をはじめた。
この間にも本部長の元には報告が入り続けていたが、本部長は尚を麻雀に興じた。尚、このとき少女の発見・保護状況に関して虚偽報告を行うことを指示した。そして本部長らは予定どおり1泊

翌朝、朝食を終えた本部長らは現場サイドへ捜査本部設置を指示するなどして、ホテルを後にした。ところが一行はすぐには警察本部に戻らず、観光
それから新潟市内で昼食後、本部長以下は東京へ戻る局長を見送り、これにて接待は終了。本部長はここで警察本部へ帰ればまだ救いようがあったが、それをせずに県警公舎に帰った


その後、新潟県警の一連の不祥事が明るみになり、その中心であった本部長は吊るし上げられた。
同年2月17日に先んじて開かれた釈明会見(前出)—、このとき記者クラブから出席を求められていたにも拘らず、これに応じなかった本部長。やがて国民や国会において”警察叩き”が激化し、25日には本部長が会見を開くに至った。この会見での謝罪対象は以下のとおり。

①少女の発見・保護状況について虚偽の発表をしたこと
②性犯罪歴のあった佐藤を房子さんの行方不明時に捜査対象としなかったこと
③4年前(2000年時点から)に佐藤の母親が柏崎署へ相談に来たが、その際の相談簿を紛失したこと
④少女を発見・保護した保健所職員からの出動要請を拒否したこと
⑤9年2ヶ月の間、巡回連絡で被疑者宅を3回訪ねていたにも拘らず、不審者情報を得られなかったこと

謝罪後の質疑応答で自身の進退について問われた本部長は、自身の非を認めながらも、「国家公安委員会の判断に委ねたい。与えられた任務に全うする」というようにもっともらしい言葉を並べ、報道陣による辞職の示唆を体よく回避した*。*実はこのときすでに本部長と局長は、事実の知れた田中 節夫(たなか せつお/当時の「警察庁長官」)に対し、内々に辞職を申し入れていた

翌26日、本部長は再度会見を開き、

「房子さんの発見・保護時の状況について虚偽の説明を行ったこと」
「懇親会(接待)の席上にあった本部長自身が、事件発覚の報告を受なされた後も帰庁しなかったこと」

これら2点につき、国家公安委員会から減給処分を受けたことを発表。それと併せて、自身の辞職願が2月29日付で受理されたことも発表した―。

ちなみに、房子さんの発見・保護の発覚した日に接待を受けていた局長であるが、この局長に対する処分は行われなかった。
その理由は、

「自ら接待事由を報告していること」
「本部長に帰庁を促していること」

これらを鑑みた結果であるということであった。
とはいえ、同日26日に自身が開いた会見の中で田中は、”警察組織の重要ポストに就く者としてはふさわしくない行動”とし、局長を非難した。
そして、最終的にこの局長も依頼退職した。

両者の退職に対し、本部長には3,200万円局長には3,800万円退職金が支払われることになったが、これに対する世間の反発は非常に強かった。結果的に両者ともその受け取りを辞退した。
また、両者への甘い処遇を批判された田中も国家公安委員会から減給処分を受けることになった。さらには、「虚偽発表」「出動要請拒否」「麻雀接待」に関わった県警職員(県警刑事部長、警務部長、生活安全部長ほか、警視4名、警部1名、警部補1名の計9名)に減給や訓戒などの処分が下された。まさに、”新潟県警丸洗い”であった—。

事件の解説 7.

佐藤の母親 共犯の是非

本事件において、佐藤と同居していた母親にも監禁幇助の疑いがかけられた。
ところが佐藤逮捕後の事情聴取で母親が以下のように、
「息子が監禁していたことを知らなかった」
「2階には何年も上がっていない」
と供述したこと。これに加え、房子さんの「母親が住んでいることを知らなかった」という供述のほか、なにより佐藤の自室を含む2階全体から母親の指紋が一斉検出されなかったことが、母親無実の裏付けとなった。
ちなみに、週刊誌やワイドショーは母親に対して穿(うが)った見方をみせ、母親の共犯を匂わせるような報道を行っていた。これには本事件の2年ほど前に発生した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が影響していると思われる。
女子高生コンクリート詰め殺人事件
1988年11月~1989年1月の間に発生した拉致・監禁・暴行・殺人・死体遺棄事件の通称。加害者宅2階に被害者女性が監禁・集団暴行を受けていることを知りながら、1階にいた加害者の母親は看過(見て見ぬふり)し続けていた。

世間の疑問・関係者の声

本事件に関する報道を受け、世間の一部では「9年2ヶ月の間、ただの一度も逃げるチャンスはなかったのか」という疑問の声が上がった。
この疑問の派生形として、「房子さんがストックホルム症候群に陥っていたのではないか」という見方もあった。
ストックホルム症候群
拉致事件や監禁事件などにおいて、被害者が生存戦略として犯人との間に心理的なつながりを築く現象。犯人から飲食などの施しを受ける間に、積み重なる小さな親切に対して感謝の念が生じる。そうするうちに、憎むべき犯人に対して、やがて好意的な印象や感情を抱くようになる。
本事件においても、長年の監禁生活の中で房子さんが佐藤に対するシンパシーを抱き、まるで彼女が2人は運命共同体であるかのような錯覚に陥った可能性を示唆する者もいた。
監禁生活中に房子さんが脱走を試みなかったことに対して、このストックホルム症候群説を一蹴する者がいる。それは、後に佐藤の精神鑑定を担当した精神科医の小田 晋(おだ すすむ)氏である。
小田氏によると、

 

  1. 「少女(房子さん)は縛られなくなってからも、常に見えない粘着テープで手脚を縛られているような感覚に陥っていた」
  2. 「脱走する気力をすっかりとなくしていた」
  3. 「生きるためには下手なこと(脱走)はしない方が良いと思っていた」
  4. 「決して男(佐藤)と一緒にいたかったわけではなかった」
  5. 「憎いとか怖いとか、(佐藤は)そんな感情を抱くのがもったいないほどの最低な人間だ」

 

房子さんは保護された後、監禁期間中の思いをこのように吐露していたという。④と⑤をみる限り、房子さんが佐藤に対して、好意を抱いていたとは到底思えない。

保護後の房子さんの様子

保護された後、それまでの空白を埋めるように、房子さんは少しずつ日常を取り戻していった。
成人式への出席」「自動車運転免許の取得」「サッカー観戦」「家族旅行
(2001年12月1日*の『新潟日報』より)
*事件から1年10か月後

事件の結末となる裁判の行方は【パート5】にて—。