【三国志】典型的な落ちぶれエリート 袁紹の失態が残念すぎる

[char no=”1″ char=”オカルトマト”]噛ませ犬とはまさにこのこと[/char]

今回紹介する三国志の登場人物は、個人的に数多くの英雄の中でも非常に残念すぎると感じる1人、袁紹です。

その失態の数々は三国志を書き起こした陳寿にも大きく非難されているほどであり、当時の勢力を考えると暗愚な人物であったと言わざるを得ません。

三国志演義の物語でも、序盤は活躍する武将ではありますが、曹操との争いによって自身も含めて一族郎党はことごとく滅ぼされることになってしまうのです。

本記事では、名門の家に生まれながら、数々の失態を重ねた袁紹のエピソードを中心に紹介していきます。

四世三公(しせいさんこう)の名門 袁家とは?

画像引用元:袁紹

四世三公(しせいさんこう)とは代々4世代に渡って当時の官職の最高位の人物を袁家が担ったことから呼ばれた名門を表す言葉の1つです。

袁紹は名門袁家の中でも20歳からは官職につき、若い頃は名家に生まれながらも周囲には謙虚であったとも言われています。

また、官職についた初期の頃には曹操とも親交があり、多くの人物に慕われていたという記述も残っているほどです。

三国志の時代に大きく袁紹が動くのは宦官の十常侍討伐の頃でした。

この頃、朝廷で権力を大きく持っていた宦官達と大将軍何進(かしん)の間では対立が起こっており、帝の外戚にあたる何進が、一時期は勢力を強めています。

しかし、十常侍を狙った何進は逆に誅殺されてしまい、その後、宮中に押し入って宦官達を皆殺しにしたのが袁紹でした。

十常侍達を含む宦官を朝廷から廃したことによって諸侯の勢力争いが激化し、袁紹もこれに乗じようとしましたが、董卓が帝を保護して洛陽に入ったことをキッカケに一時的に逃亡を図ります。

反董卓連合軍の盟主としての失態

董卓が帝を擁立して暴虐を尽くしていたことに対して橋瑁(きょうぼう)という東群太守が全国に反董卓連合軍の檄文を飛ばし、これに呼応して袁紹達も集まることになります。

※三国志演義などでは曹操が檄文を飛ばしたとも言われています※

この時、名家出身であり人望のあった袁紹が反董卓連合軍の盟主に持ち上げられ、後に活躍する多くの武将達を率いることになりました。

多くの諸侯が反董卓連合軍として洛陽の外に兵士を集結させたにも関わらず、袁紹は董卓軍を相手に積極的に戦うことが出来ず、孫堅や曹操などが独自に軍を動かして戦うことになってしまいます。

この時の行動によって信頼を失った袁紹は曹操などから批判される立場になり、大きな成果を上げることが出来ずに反董卓連合軍は解散してしまいました。

袁術・公孫瓚との対立

袁術は袁紹と同じ袁家の親戚でしたが、反董卓連合軍解散後には対立することになり、加えて公孫瓚とも対立関係になります。

逆に、曹操などはまだ袁紹の配下にいたため、これらの立場を利用して袁術・公孫瓚に対立すべく、羌族や董卓を暗殺して都から落ち延びてきた呂布などを利用しつつ有力者を支援する形で立ち回り、自身は公孫瓚との長い戦いに備えていました。

袁術討伐はこの時期の曹操や劉備によって行われたものであり、これらを支援しています。

[char no=”1″ char=”オカルトマト”]あまり表には出てきませんが、この時期は地盤固めに走っていたのが袁紹という人物でした[/char] [char no=”2″ char=”すぱもん”]この間に劉備が陶謙と親交を結んだり、呂布と争っているけど、そこには積極的に介入していなかったんだね[/char] [char no=”1″ char=”オカルトマト”]袁紹は袁紹で戦ってはいたんだけど、どちらかと言うと曹操の方がこの頃は敵が多かったね[/char] [char no=”2″ char=”すぱもん”]呂布や劉表、袁術なんかの大きな存在を相手にしてたからね[/char]

曹操が献帝を擁して自立した後にも、実は袁紹は大将軍に任命されており、確固たる地位を築くことに成功しています。

公孫瓚を追い詰めた袁紹はもはや中原にほとんど敵はおらず、帝を抱えた曹操にとっては強大な勢力として立ちはだかっていたのです。

袁紹と曹操の兵力差は約5倍から10倍だったとも言われており、圧倒的に袁紹の方が上だったにも関わらず、袁紹は曹操との権力争いに敗北してしまうことになります。

曹操との雌雄を決した「官渡の戦い」

三国時代の歴史において、勢力図の大きな転換期になったと言われているのが、西暦200年におこった官渡の戦い(かんとのたたかい)と呼ばれる決戦でした。

次第に袁紹と対立を深めた曹操は、帝を抱えた状態において兗州豫州司隸徐州を手中に収めると、南は呉、北は袁紹に挟まれる中国の中心地域を勢力下におくことになります。

しかし、河北の袁紹と呼ばれたように、黄河から北にかけての冀州・青州并州幽州は袁紹が完全なる地盤を築いており、南征することによって中原を抑えようと睨み合うようになるのです。

199年には、劉備が曹操と対立関係になり、曹操に攻められます。

有名な逸話である関羽が曹操に降伏したのはこのタイミングであり、劉備は逃げ延びて袁紹を頼ることになりました。

この戦いの兵力は一般的に袁紹軍が約10万、曹操軍は2万~4万ほどの数だったと言われています。

ほとんどの諸侯が袁紹が勝つと考えていた戦いでしたが、結果的には袁紹はこの戦いで全てを失い、滅亡の道をたどることになるのです。

袁紹敗北の理由は、数多くの研究がおこなわれていますが、代表的なもので言えば、曹操との早期決戦を望んだことが主たる敗因になったとされています。

袁紹は完全に曹操を見下しており、その力を侮っていたとも言われています。

配下の進言を判断出来なかった袁紹のミス

曹操が南征してくる袁紹に対して、一番危険視していたことは長期戦に持ち込まれて兵糧不足になることでした。

状況を分析した袁紹の配下であった田豊は、当初は電撃戦を主張したものの、曹操の弱点であった兵糧不足を指摘し、長期戦を提案しています。

また、袁紹が河北一帯を支配した時に大きく貢献した沮授(そじゅ)は曹操が帝を擁立していることを理由に、国境周辺での長期戦を提案していました。

これらの進言に袁紹は耳を貸さず、あくまでも短期決戦にこだわったことから、沮授には見放されることになります。

一方で郭図と審配という軍師は短期決戦を献策し、功臣であった沮授の権力を落とす提案をおこないます。

曹操を侮っていた袁紹は後者の2人の短期決戦を採用し、田豊にいたっては投獄してしまうことになったのです。

さらに、幕僚であった許攸(きょゆう)は進言を聞き入れなかった袁紹を見限り、曹操陣営に裏切ることに。

当初、圧倒的に有利だった袁紹の陣営は袁紹自身の判断ミスにより、形勢を不利にしていきます。

許攸から田豊の投獄を聞いた曹操は、田豊こそ自分の命の恩人であると皮肉を漏らしたとも言われています。

兵糧を逆に燃やされた袁紹軍

沮授は再三、烏巣にある兵糧に対して別働隊を配置させて守るべきであるという主張をし、曹操軍による略奪を警戒する進言をしていました。

烏巣で兵糧を取り仕切っていた淳于瓊(じゅんうけい)はスキを突かれ曹操軍に襲われてしまい、兵糧を全て燃やされる結果に。

淳于瓊による兵糧を失った報せを聞いた袁紹軍の張郃(ちょうこう)と高覧(こうらん)は曹操に降伏することになります。

張郃や高覧は、曹操に仕えた後も活躍した有能な将軍であったため、一気に袁紹の勢力は衰えることになったのです。

当時の食料問題は、軍事行動における要であり、これを袁紹が重要視しなかったことが降伏の大きな原因になったことは明らかです。

多くの裏切りから敗北した袁紹

多くの臣下の裏切りなどが重なり、混乱に陥った袁紹はやむを得ず河北に敗走することになります。

袁紹が敗走した後は曹操も深追いをすることはなかったものの、袁紹の跡継ぎ問題によって内乱が起こりました。

その後、袁紹は202年に病気によってこの世を去ると、北へ侵攻した曹操によって袁紹の息子達一族も滅ぼされることになり、圧倒的な軍事力を誇った袁紹の一族は滅亡してしまいます。

袁紹は民衆に対しては善良な政治をしていたため、多くの民が悲しんだと言われており、軍事面ではその才覚を発揮出来なかったものの、後に魏の郭嘉(かくか)や荀攸(じゅんゆう)などからもその仁政を讃えられる人物であったそうです。

しかし、乱世においては1つの決断が大きな敗北をもたらすものとなり、劉備や曹操、孫権のように部下に進言に広く耳を貸さなかったことが袁紹没落の最大の原因だと言えるでしょう。

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